飯田水引の歴史

飯田水引とは

飯田水引の歴史について

水引と飯田市

飯田市

長野県南部に位置し、南アルプスと中央アルプスに囲まれ、 天竜川が街の中央を流れる、長野県のなかでも暖かな気候の地域で、 りんご、柿、梨などの果物も多く生育する豊かな自然に たたずむ地域です。
現在、全国でも珍しい20余の地場産業が立地し、町並みは、飯田の大火によりかなりの家屋が焼失したものの、古くからの建物がいまだ点在し、その様子は、小京都とも言われています。

飯田水引とは

飯田水引は長野県下伊那、飯田地方で何世代にも渡って伝え続けられて きた伝統工芸です。
強く丈夫な和紙でつくられた良好な水引は、日本古来の伝統的風習に用いられる、 雅やかにして美しさを象徴するもので、元禄時代(江戸時代1688年〜1703年) からの伝統的な手法による生産を継承しながら全国に出荷し、現在、全国の 70%の水引製品を生産しています。

戻る

飯田水引の歴史について

飛鳥時代、607年遣隋使である小野妹子が任務を終え日本に帰朝した際、隋の答礼使からの贈り物に、航海の無事と平穏を祈り紅白の麻紐が結ばれていました。
以来、宮中への献上品は、紅白の麻紐で結ぶ習慣とになり、これらが水引の原型と言われています。

また、語源諸説として、紅白は、太陰暦の陰と陽を表しており、神聖な地域と一般社会とを区切るため、仕切りに紅白の水引や幕や漲り水を打って引き締めることから水引、 と呼ばれるようになった、と言われています。 また、平安時代の宮中で発祥された贈答品の装飾用として考案された紅白の水引は、当時、最高級の口紅を染料に用いられたことから「くれない」と呼ばれたとも伝えられています。


飯田水引の歴史 −飯田水引と飯田和紙−
平安時代
平安時代に編纂(へんさん)された延喜式に「伊奈郡より草紙献上」とあるのが記録上の初見として残っている。

室町時代 応仁2年(1468年)
久堅在住の知久俊範が諏訪大社の守矢氏に御符札として「一貫文800文皮紙3束」を献上。
室町時代より、他藩へ移出できる和紙が製造されていたこになる。

永禄9年(1566年)
平澤豊前守に宛てたと言われる武田氏の朱印受取に、その年の年貢の一部として、「240文相当の中折2束」と記されている。
紙漉きが、年貢代わりになるほどに、和紙が飯田地方の産業となっていた。

-戦国時代末期の覇権をかけた政争を背景に、飯田地方の領主はめまぐるしく交代-
元和3年(1617年)
伊予大洲藩より、脇坂安之が入封し、治世50年に渡る 脇坂氏は、当時大洲半紙等で知られる紙漉きの本場から来た故、製紙の技術と指導には卓越していた。
(この頃にはすでに大帳紙を使用した元結製造がなされていたとも言われるが、本格的な和紙・元結製造はこの後となる)

-江戸時代はじめ-
飯田地方は、和紙や樽木も「米換算の年貢」に換算されていたため、下伊那地方一円で広く生産されていた。
特に、原料である楮(こうぞ:クワ科の植物)が入手しやすかったため、色は少し黒いが水に濡れても強いとの評判が高く、「飯田大帳紙を製造し、和紙の本場である尾張藩まで移出されていた」という記録がある。

寛文12年(1672年)
野州烏山より移封されてきた飯田藩主の堀親昌が、丈夫で水にも強いと美濃地方や尾張藩でも高く評価されていた飯田大帳紙を活用して、 商品価値の高い元結製造を奨励。地元の和紙を使用した元結製造が始まる。 さらに、島田村(現在飯田市松尾)の松村金左衛門が、美濃の国より稲垣幸八を招聘し、良質の楮(こうぞ)紙を開発。

飯田和紙は、丈夫で、白く艶のある和紙の研究に努め、繊維を縦揺すりにして強度を増し、石灰と米糊により美しい光沢をもつようになり、江戸の評価をさらに高める事となった。

なお、飯田藩では、飯田の特産である凍み豆腐を将軍に献上する際、紅白の水引を使用した。 平安時代に宮廷用工業として発祥した水引は、江戸時代前期となるこの当時ではまだ一般に普及する事はなく、上流階級の使用品であった。

元禄2年(1689年)
桜井文七が飯田水引の改良に努め、光沢ある丈夫な品を作ることに成功。また、江戸の芝日陰町に販売店を設け、飯田元結を江戸に広めた。文七元結というブランドにまで高められた彼の元結は、東北地方や北陸地方まで移出されるようになっていった。

徳川幕府は各藩に対して、質素倹約のもと、自給自足の経済を確立させるため、殖産興業を奨励し、尾張から、また、他藩に招かれたりして、それぞれの地の特徴を持つ良い元結を作っていた。

文政2年(1819年)
その後、貨幣経済の浸透は、農村の人口を減少させ、武士は貧窮し、諸藩は財政難に苦しんだ。 そして、各藩は財政基盤である特産品の技術流出に神経をとがらせ、飯田藩においても文政2年に移動禁止となった。

江戸への移出問屋は、過当競争を避けるために、飯田藩への運上金や冥加金によって、10軒に制限され、毎年5600貫前後を江戸へ送っていた。 当時の江戸元結の50%は、信州飯田あたりで漉いた楮紙にて飯田の元結なり、と記されている。

また、1850年、旅鑑札制度を導入し、焼印による品質管理を行い、飯田元結の名声はさらに高まることとなった。

明治4年(1871年)
全国の元結供給の50%強を飯田元結が占めていたが、断髪令により、元結の需要は大幅に減少した。

飯田では、この品質の高い元結に改良を加え、光沢のある丈夫な水引を作り出すことに成功し、製造されるようになった。

昭和〜現在
昭和になると、水引の結び方も、さまざまな結び方が開発され、上流階級で使用されていた水引も、一般で使用されるようになっていった。 特に、金封、結納品、そして水引細工の生産が増え、地場産業とし成長していった。 また、1998年の冬季オリンピック・パラリンピックが長野県で開催された際、パラリンピック入賞者には、飯田の水引で作られた月桂樹冠が授与され、 また、参加選手、役員、海外報道関係者にも、記念品として、水引細工が贈与され、世界に水引の名前が知られるようになった。 現在では全国の70%の水引の生産高となっている。

飯田水引トップページに戻る